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Tag: V島 見たり聴いたり

サンダース宮松敬子(サンダース・みやまつ・けいこ) コラム カバーイメージ

第79回 9カ月間の希望と期待と苦悩と不安

 第三次世界大戦の流れにもなりかねない気配の昨今の世界情勢。新聞、テレビ、ラジオ、インターネットなどに流れるニュースは連日「戦争、戦争」の言葉で埋め尽くされている。  罪のない一般市民、年老いた人々、そして何よりもいたいけな子供たちが逃げ惑い泣き叫ぶ姿。目を覆いたくなる戦場と化した町々の状況が否応なしに飛び込んでくる。そのたびに、昨今の物価高を嘆きながらも、一応恙なく日常を送っている自分が何か責められているような気さえしてくる。  歴史を紐解くまでもなく、戦争は何時の世も男たちが引き起こすものと決まっている。そしてどちらもがそれぞれの言い分を声高に叫び、例えそれが身勝手で理不尽で非人間的な理由であっても、大方は自分の或いは自国の利益の為と主張する。  そうした戦争の立役者たちの裏で、虎視眈々と直接的/間接的に糸を引く大国や周辺の国々、こんな状況を商機ととらえる人々の何と多いことか! 名だたる指導たち 「ずる賢い」ことの象徴のように言われる狐に、まことによく似た目を持つプーチン大統領。こんな類似点を取り上げたら狐に悪いとは思いつつも、抜け目のない行動も一致するかに見える。  柔道に大変造詣が深く黒帯の保持者と言うが、教えである「自他の共栄をはじめとする精神を学び世の中に貢献することを究極の目的とする」などどこ吹く風の馬耳東風。ウクライナへの侵攻はこの精神とは真逆で愚かな行為などとは露ほどにも思うまい。  その戦争を好機と捉え、すり寄る北朝鮮のリーダーは動物なら何に例えようか。食料不足で自国の民が餓死している等のニュースも耳にするが、日本の大福を連想させるふっくらとした頬を持つ娘共々、栄養は十分過ぎるほど行きわたっているかに見える。  その隣国の君主は、どんな時も「アルカイック・スマイル」とでも呼びたい程しか顔の筋肉を緩めない。内面を一切表に出さないのが大国のリーダーと心得てか、わずかなほほ笑みのその陰で何を考えているのかは図り知れない。  岸田首相が何度となく「自由で開かれたインド太平洋の推進~」などと言ったところで一切動じる様子はない。記者会見に登場する報道官もまたしかりで、東シナ海など等で国際的にどんな違法行為をしても、何も臆することなく自国の正当性を厳然と主張する。  男たちが引き起こす「これでもか!」と続く戦争の最卑近の例は、言わずと知れたイスラエル軍によるパレスチナ自自区ガザ地区への大規模な空爆がある。  10月7日の開戦以来一か月余り。双方の死者が一万人を超えたが、ハマスのネタニヤフ首相は一歩も引く姿勢を見せない。あまつさえ極右閣僚の一人が過日「ガザへ核爆弾を落とすのも選択肢だ」と発言。さすがに非難が高まったものの、恐るべき思考の戦闘員は彼一人ではあるまい。  加えてアフガニスタンで猛威を振るうタリバンの支配や、いつ終わるとも知れないミャンマーの軍事組織の謀略も民意など一切関係なく殺戮が繰り返されている。  一発の銃弾でいとも簡単に死にいたるはかない人の命のもろさ。男たちは、その一つの命を生み出す9カ月間の女たちの不安と期待、苦悩と歓喜がどれほどのものかを知っているのだろうか?!  貴方がた自身も貴方がたの母親によって、この世に生を受けたことをよもや忘れてはいないだろうが、その母親たちは将来大殺戮によって多くの人間、特に幼い子供たちを殺害する指導者になることを望んだだろうか?! 与謝野晶子の詩  「戦争」と言う言葉を耳にするたびに頭をよぎるのは、明治から昭和にかけて活躍した女流歌人 与謝野晶子の弟が日露戦争(1904年から18カ月)の激戦地にいる弟を思って詠んだ詩である。  その中に「皇尊(すめらみこと)は戦いにおん自らは出でませぬ」との一行がある。そう、どの戦争指導者たちも、自らは戦場に赴き武器を持って茫々たる荒野を、ぬかるみの戦場や暗黒の塹壕を駆け巡らないのだ。明治天皇も昭和天皇もしかりで戦場には赴かなかった。  諸々の戦争に加担している男たちよ、どうか一日も早い終結の道を探って欲しい。 

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第78回 ウポポイ・アイヌ博物館 訪日探訪記(最終回)

 日本が近代化していく過程で、ともすると忘れられる傾向にある日本の先住民族アイヌの人々の言語や文化の継承が顕著に危うくなっている。 その傾向は今に始まったことではないものの、彼らの持つ特異性を各方面から保護し後世の人々に伝えることを目的とした博物館が、北海道の道南、白老(しらおい)郡白老町に3年前に建設された。  響きが軽やかな「ウポポイ」とは、アイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味するとのことで「民族共生象徴空間」という説明が付与されている。 博物館の外観  筆者は今まで折に触れ「アイヌ問題」が気にはなってはいたのだが、深く探求する機会がなかった。それが今夏この博物館に足を運んだのは、くすぶり続けているカナダの先住民問題をこの2、3年取材したことで、彼らの根深い思いに多少なりとも触れたことが大きい。 余りにも未解決のままの問題が累積しているのが分かるほどに、まことに遅まきながら、日本の先住民(アイヌ)問題は今どのようになっているのかを知りたいとの思いが募ったのである。 盛り沢山の博物館の展示  確かに当博物館はアイヌ民族の歴史、文化、言語、生活様式など等、多方面に渡って万遍なく紹介されている。 ウポポイ博物館の公式URL  筆者が訪れたのは5月半ばであったが、修学旅行の一環として来訪しているとおぼしき中高生が多く、駆け足で通り抜けていく学生たちの姿が後を絶たなかった。こんな短時間での見学で彼らがどれ程の知識を得て帰路につくのか疑問ではある。とは言えこれを機にアイヌばかりではなく、大方は無知が招く少数民族問題に彼らが多少なりとも興味を持つきっかけになれば博物館としては本望だろう。 博物館のマスコット「トゥレプ」アイヌ語で「オオバユリ」を意味する  関係者の話では見学には少なくとも2時間は必要と言うが、たったそれだけの時間ではもったいないほど多くの興味深い展示物や体験見学が出来るようになっている。 何と言っても興味をそそられるのは、点在する建造物内でのワークショップや広い野外の舞台で繰り広げられるデモンストレーションである。 熊の射止め方を紹介するデモンストレーション  自然界のすべての物に魂が宿るとする考えは、アイヌの精神文化の中心として継承されてきた。例えば熊や鹿などを射止める時、一気に心臓めがけて矢を放ち苦しめることなく殺傷し、海からはサケやアザラシを捕獲し、また季節の植物を採取することで生き抜いてきた昔の生活をそこここで再現している展示物を見るのは興味深い。 当然ながら今はもうそうした生活様式は継承さされていないものの、アイヌの人々の自然を敬う精神の一端を垣間見られるのは嬉しい。 活動家 宇梶静江さんとの出会い  こうした博物館が出来たのには、虐げられてきた多くのアイヌのアクティビスト達の地道な運動があってのことと想像する。 その一人、今年90歳になる宇梶静江さんにお目に掛かる機会を得たことは、筆者にとってこの上ない喜びであった。 活動家宇梶静江さん(左)と筆者  北海道でアイヌとして生れながら東京では出自を隠していた遠い昔。自身をアイヌと公表するまでの並々ならない心の葛藤。50年前に「東京ウタリ会」を設立し仲間の結束を呼び掛けたが、反響が大きかった半面同胞からのバッシングにもあった。(ウタリはアイヌ語で「同胞/仲間の意味」)  紆余曲折を経て北海道に戻り、ある日札幌のデパートで開催されていたボロ布/古布を使った絵の展示会に行き、幼かった頃に紙も鉛筆もなく地面に棒で描いていた時代を思い出した。馴染みのある古布の思わぬ使い道を知り雷に打たれたような衝撃を受けた。以後作品制作に没頭したが、最初に描いたのがアイヌの守り神シマフクロウであった。今住む家の門にも「シマフクロウの家」と書かれたサインの上に一羽が鎮座している。北海道に戻ってからも絶えることなくアイヌへの偏見を排除する活動に没頭しており、書物も何冊か著している。  余談ながら俳優の宇梶剛士氏は静江さんの子息である。 家の前にあるサイン  短期間ではあったが実りの多かった北海道の旅はここで終了し、新函館北斗駅から津軽海峡の海底を走り抜ける新幹線ハヤブサで雑踏の東京への帰路に就いた。

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第77回 新渡戸稲造の偉業 ~北海道大学で再発見~訪日探訪記(4)

 BC州のバンクーバーやビクトリアに住んでいる日系人や移住者の間では「新渡戸稲造」と言う名前はよく知られている。  だが、昨今日本から来た若者たちに聞くと「ウ~ン聞いたことあるけれど・・・」と言った反応が多い。とは言え中には「前に日本の紙幣に載っていた人でしょう?」との返事をする若者もいて驚かされる。UBCのキャンパスには、彼の名前の付いた日本庭園 Nitobe Memorial Garden があるので訪れた人も多いに違いない。 終焉の地ビクトリア  一方当市ビクトリアには、1933年に氏がバンフで開かれた「太平洋会議」に出席した折りに病に倒れ亡くなった Royal Jubilee Hospital がある。その歴史を踏まえ氏の故郷「盛岡市」とビクトリア市は1985年に姉妹都市提携を結んでいる。 以後、二都市間は活発な人的交流が行われていた。だが残念ながらこの数年は、パンデミックのため行き来が滞り、何やらその絆が薄れている感は否めない。 だが島内には氏をたたえる記念すべき場所が幾つかある。 まず姉妹都市提携記念のために建てられた石碑が、島の南端の Dallas Rd 沿いのプロムナードに存在する。そこには氏が残した「願はくば我太平洋の橋とならん」の有名な文言が刻まれている。 石碑 用足しする犬  だが正直言って何とも興ざめなのはそのデザインで、まるで墓石を連想させるかに見えることだ。すでに38年も経過していることもあるためか、道行く人の注意を喚起するスポットとは言い難い。また鉄柵で囲まれているため海辺に降りていく人々の恰好の自転車置き場になっていたり、散歩の犬たちのトイレの場所になってもいる。  これ以外のスポットは、2005年に先述の病院の中庭に姉妹都市設立20周年記念として「新渡戸稲造庭園」が作庭され、同じ場所に氏の胸像が2017年に建てられた。またツーリストが行き交うダウンタウンの Innar Harbor に続く公園にも同年に「友情の鐘」と称する鐘が建立されている。 病院の裏庭の新渡戸稲造庭園(2005年)/同じ場所に胸像建立(2017年の除幕式) 友情の鐘(2017年6月) 北海道大学(札幌)内の胸像  ではこの歴史に残る偉業を成し遂げ、五千円札の肖像画にもなった新渡戸稲造氏とはどんな人物だったのか? その詳細に関しての情報には筆者も乏しかったが、今夏北海道大学(札幌)のキャンパスを訪れた際に立ち寄った博物館で、氏の功績をつぶさに見る機会をえたのは嬉しかった。 一般に知られている肩書は作家・教育者・国際貢献者となっているが、そのタイトルに恥じない諸々の功績を国内外に残しているのを知った。特に有名なのは英文で書かれた著書『武士道』で、日本人の「道徳観」「価値観」などを分かりやすく解説し、日本と言う国を世界的に知らしめたことであろう。 とは言え広いキャンパスを散策する観光客の人気は、何と言っても“Boys be ambitious”の言葉を残したクラーク博士。写真撮影をする人が引きも切らないが、偉業を成し遂げた新渡戸氏の胸像は、ちょっと脚を伸ばさなければならないため人気度は落ちる。  だが筆者が訪れた時は、振り出した春雨にひっそりと濡れて、周りのポプラ並木とこよなくマッチしたたたずまいに言い難い風情があり心に沁みた。 ポプラ並木横の胸像(2023年5月)  

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第76回「ニッカウィスキー」のふるさと〜北海道余市町(よいちまち)工場見学記〜訪日探訪記(3)

 「スピリッツ系のお酒はどうも・・・」と言うと、「エッ、すごく強そうに見えるけど!」と必ず言われる筆者。ウィスキーなどをたしなむ人から見ると、きっと無粋に見えるだろうな・・・とは思うのだが、残念ながら飲めないものは飲めないのである。 とはいえ、ボトルの中で波打つあの誘いこむような琥珀色の液体。いかにもコクがありそうな芳醇さが、ウィスキー好きには堪らないのであろうことは容易に想像できる。 そんな筆者がライラックの咲き乱れる5月、北海道の道南地方石狩湾に面したニッカウィスキーの生産地余市町を訪れたのには深い想いがあったからだ。 数々のニッカウィスキーの一部 日本のウィスキーの父 知る人ぞ知る日本でのモルトウィスキーの誕生は、大正7年(1918)24歳でその製造を学ぶため、スコットランドに単身留学した広島県出身の竹鶴政孝と言う人物がいたことによる。 政孝/リタ夫妻(駅から工場に続く道はリタロードと呼ばれている)  彼は2年間みっちり指導を受け製法を学んだものの、帰国した当時の日本には洋酒の何たるかを知る人はまだ少なく、またそれを育む土壌も殆どなかった。無からの出発は悪戦苦闘の連続で借金に借金を重ねる生活であったが、精魂込めて造ったウィスキーも熟成期間が短いと言った問題点があったり、ウィスキーに馴染みの薄い日本人には中々受け入れてもらえなかった。 しかしその長い試行錯誤の道のりの間でも、本物のウィスキーの本質はモルトにあると固く信じていた竹鶴。転々と製造所を変遷した後、最終的にスコットランドの自然と類似した北海道の余市が最適と判断し工場を建設した。 スコットランド留学から実に22年目のことだったが、これが後に「日本のウィスキーの父」と呼ばれるまでになった竹鶴政孝と言う不屈の精神の持ち主のドラマチックな人生の軌跡なのである。 NHKの朝ドラ「マッサン」で一躍有名に この歴史上の人物が日本で爆発的に知られるようになったのは、他でもない2014年秋から150回に渡って放映されたNHKの朝ドラ『マッサン』による。 駅前に飾られた朝ドラの案内板  残念ながら筆者はその連続ドラマを見るチャンスはなかったのだが、史実上のこの人物を知ったのは、都会的でスタイリッシュな官能小説を書くことで有名だった森瑤子(1993年52歳で没)の『望郷』(角川文庫)と題した実話に基づく小説であった。  もちろん彼女は紆余曲折の末、日本で初の本格的ウィスキーづくりを目指した竹鶴の情熱とその詳細を追っている。だが焦点は、留学中に知り合い生涯の伴侶としてウィスキー一筋に生きた夫の果敢で前向きな想いを支え続けたスコットランド人の妻リタにある。 リタの肖像画とドレス  時は大正時代中期、国際結婚などは社会的に全く受け入れられなかった日本。竹鶴の実家からの冷たい仕打ち、流産の体験、養女として育てた子の反抗、ウィスキー造りのために次々に住まいを移動する生活、敵国人としてスパイ容疑までかけられた太平洋戦争中の日々・・・。それでも決して音を上げることなく、夫の政孝をマッサンと呼びながら二人三脚で、家族や工場で働く従業員たちを守り夫の夢の実現に影の力となった。 64歳で鬼籍に入る迄の異文化の中での40年間の生活が如何ばかりだったかは、想像をはるかに超えるものであろう。 スコットランド女性 この女性の不屈な精神に思いを馳せるとき、筆者は幾度となく自身のスコットランド系の義母を想起した。 彼女はカナダ生まれながら、スコットランド気質を余すことなく持ち合わせた人で、我慢強く、頭脳明晰ながら控えめで、影から夫をサポートする楚々とした女性であった。 大好きだった義母とのそんな共通点に心惹かれ、筆者はいつか余市を訪れてみたいとの夢をいだくようになった。 そして今春4年半ぶりの訪日の折りには、迷うことなく北海道行を計画し余市に向かったのだ。 駅を降りると、そこはもうニッカウィスキー一色の雰囲気に包まれていた。 一般公開の工場内の一部  チリ一つなく清潔に整備された工場見学は、よく訓練されたガイド嬢の流れるような案内でくまなく見学することが出来る。敷地内には工場の他に移籍したリタとマッサンの旧家屋、当時の事務所後など等も点在しツワーの最後にはウィスキーの試飲もある。 またリタが苦労して残したスコットランド風のレシピを再現した料理や、デザートを提供するレストランも併設されている。 レストランのメニュー  「世に残る偉大な業績を残した男の陰には女あり・・・」 筆者はそう呟きながら小樽に向かう電車に乗り込んだ。 注:工場見学には前もっての予約が必要  

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第75回 大好きだった古いジーンズを達磨(だるま)に着せて ~SDGsにも繋がる素敵な思い出に~訪日探方記 (2)

 ♪だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷぷ♪ こんなわらべ歌を知っている年齢の下限は今の時代一体何歳くらいだろうか?そんなことを思いながら「達磨クリエイター」の清水葵氏(37)を、横浜の港みらい近くのショッピングモール東急スクエア内のスタジオ兼展示場に訪ねたのは5月上旬。  居並ぶ店々はそれぞれに趣向を凝らしどこまでも明るく、買い物客の購買意欲を駆り立てる。  そんな店の一つである一点物の家具を置くショールームの一角が、清水葵氏の仕事場。想像以上にシンプルで清潔なたたずまい。昔かたぎの職人風を想像するとその落差に驚かされる。  リラックスした今どきの若者の雰囲気が漂うクリエーターは、14歳でスケボーの世界に魅せられ、年を重ねるに従い「リーボック」など幾つもの大手スポーツ会社と契約したり、メデイアにも取り上げられたりしてプロのスケーターに。  ではそんな華々しい過去を持つ彼がなぜ達磨の創作に魅せられたのか?  元々グラフィティやアート関係の人々の作品が、スケーター時代から身近にある環境だったことで、そうした世界に興味はもっていた。だが直接の原因は、27歳の時にスケートボード専門情報誌『TRANSWORLD SKATE boarding JAPAN』の表紙を飾ったことと、結婚をしたことを機に人生の転換を計ろうとプロの世界に別れをつげた。  とは言え、次に何に向けて自分の能力を発揮したいかという明確な道筋があったわけではなかった。そんなある日、プロ時代にはき古した何本ものデニムパンツが目に留まった。転んで穴があいた物、色落ちしほつれがそこここにある物、さらには怪我をした折の血痕が付いた物など等、色も形も様々でどれ一つとして同じものはない。  いつかは捨てる積りでいたのだが、ふとこれを上手く生かして何か出来ないか、との考えが浮び、試行錯誤の末にたどり着いたのがデニムクラフトであった。生地をどのように生かして何を造るか・・・。全く新しい分野であるし、そこに決まったルールがあるわけではない。  あれかこれかなど等、今の形の原型が完成したのは一年後で、更に5年ほどの歳月の末に「達磨クリエーター」という新しい領域にたどり着いた。「誰も今までにやっていないものを!」との前向きな強い思いや、試行錯誤の時代に巡り合った多くの人々から学んだアイディア=日本人の生活の中に古くからある「達磨」という素材に行きつき、それが彼の創作意欲を駆り立てたのである。  その後は、ひたすら切っては貼り切っては貼りを繰り返した。まずはデニムパンツを細かいパーツに分解し、クリエイトしたいと頭で描いていた形に再構築して行く。一番の苦労は達磨が球体のため丸みをいかに出すかであるが、そこが腕の見せどころ。それゆえに出来上がったものは一つとして同じ表情にならず、「一品もの」として価値を生む。  興味を示してくれる客が徐々に増えるに従い、デニムパンツばかりではなく、注文するお客によってそれぞれに思い出のある素材が持ち込まれる。揃いの着物地で親子ダルマを造ったり、革製品による作品などもあるが、一番珍しく行程が難しかったのは、ダウンジャケットを使っての注文を受けたことであった。  「コロナの影響は?」の問いに、「面白いことに人々が行き来出来なかったために、返って認知度が広がったんです。それに僕にとっては、家族や達磨と向き合える時間が増えたことが良かったと思っています」とあくまでも前向きである。それを裏打ちするように、ショールームの一角の壁には沢山の予約注文書が何枚も並んでいるのが散見される。  素材、サイズなどそれぞれに違いがあるため、制作時間も値段も一律ではないが、今はとにかく知名度を広げ、より多くの人に知ってもらうことが一番と思っている。  客層も裾広がりで、観光目的で来た外国人が興味を持ってくれることは嬉しい。特に台湾や香港といった地域の人たちは宗教的なバックグランドがあるため、達磨の何たるかをすでに知っており理解してもらいやすいと言う。  将来には海外にも進出したいし、また誰も手が出せない高価な絵画「モナリザ」を何とかダルマの形に落とし込みたい・・・など等幾つもの夢を持っている。と同時に子供(6)が出来たことで、安全な食に対する認識が広がり、何らかの形で人を助け喜んで貰う側に回りたいとも思っている。  自分の才能を信じ突き進んだ過去。第一線で活躍した元スケートボーダーの夢は、大空に向かい自由自在に舞い上がっていた時のように大きく広がって行く。 7つ道具を前に  

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第74回 国による「同性婚」承認への長い道のり 訪日探訪記 (1)

~どの国も一筋縄では行かない法改正~  4年半ぶりの訪日は5月初旬から月末までの三週間。天候に恵まれたことが何よりであった。 溜まりに溜まった公私にわたる用事を済ませカナダに戻り、ホッとする間もなく飛び込んできた日本からのニュースは、結婚の平等訴訟に関する判決結果。曰く『同性同士の結婚を認めないのは、憲法14条1項(法の下の平等)と24条2項(個人の尊厳と両性の本質的平等)に違反、名古屋地裁で違憲判決』と言うもの。 筆者は思わず「よかった!小さいけどこれで一歩前進か···頑張れ日本の性的マイノリティ(以下LGBTQ)たち!」と密かに手をたたいた。 これは『結婚の自由をすべての人に』と題して30人を超えるLGBTQの人々が、結婚の平等(法律上の性別が同じ二人の結婚)の実現を求め、全国6つの地裁、高裁で国を訴えている裁判の一つなのだ。 『愛知地裁』と呼ばれる今回の裁判は、愛知県在住の男性カップルである二人が、法律上の性別が同性のため結婚を認められないのは違憲。そのため望む相手との結婚を妨げられ精神的障害を被った、として国に損害賠償を求めていたのである。  嬉しいことに、この判決から数日後には『福岡地裁』で争われていた3組の同性カップルにも「同性婚を認めないのは個人の尊厳に反する」として違憲の判決が下った。  だが彼らが望むのは国からの賠償金や慰謝料などでは全くない。  日本の裁判制度では、法律や制度の違憲性だけを問う裁判を起こすことが出来ない。そのため原告側はまず「権利を侵害され損害を受けた」と訴え、裁判が進行する中で「違憲性を主張する」と言う方法が取られるのである。 当然ながら今回の結果が勝訴(全国では4件目)だったからと言って、国として同性婚が認められるようになる訳ではない。そうなるには国を挙げての法整備が必要で、そこに到達するにはまだまだ気の遠くなる長い道のりを歩まなければならない。 「人権を勝ち取る」ということ  筆者が同性婚の問題に興味を持つようになったのは2000年前後のことで、それまでは正直言って「ゲイの権利って何?」とまるっきりの無知が先行していた。 だが当時カナダでは、日々メディアを賑わすニュースのトップに「LGBTQの人権」なる言葉が飛び交っていた。より詳細を知り小さいさざ波が大きなうねりとなる過程を目のあたりにし、気が付けば自身もニュースを懸命に追うようになっていた。 徐々に「なぜ?はてな?」の部分が薄れ「なるほど、そういうことか」と理解できるようになり、加えて「人権を勝ち取る」と言う運動が、社会の中でどのように進行していくのか。その点にも強く惹かれ取材にのめり込んでいった。 それからは新聞の切り抜き(当時は紙の新聞が主流)を集め、メディアに頻繁に登場するLGBTQ人々をインタビューし、世界に先駆けて2001年に同性婚を国として承認したオランダにも出かけ、またいろいろな意味でLGBTQのメッカである街NYにも行き、関係者たちから話を聞くなど多方面に渡って情報を収集した。 その過程で筆者が一番フェアでないと感じたのは、愛し合い長期に渡って生活を共にしても、法的に「結婚」と言う形が取れないために被る不平等がそこここに存在することを知ったことだった。  例えば一人が手術を余儀なくされ、病人との意思疎通が出来ない場合など、最終決定を下すのは「家族」。と言うことは共同生活で相手を一番良く知っていても、同性の相手は幕の外に置かれ決定権はない。また相手が死亡した場合なども、同性愛者と言うことで忌み嫌っていた筈の家族が突如しゃしゃり出て、二人で築いた財産などを一方的に取り上げる。同性の相手は権利を主張し法廷で争うことさえ出来ない。養子縁組をする資格もなく、家屋の売買、賃貸の住居を共同名義で借りることも出来ないなど等···。 欧米では異性婚の50%(日本は30%)が離婚するという近代社会。いがみ合っている夫婦でも、ただ『男女』の組み合わせであるがために権利が与えられる…。不平等と言う他ない社会の仕組みを是正したいと思うLGBTQたちが、人権の立場から権利を要求する気持ちが痛いほど理解できるようになった。そうした流れは、年月を追うごとにカナダのみならず、世界的潮流となって行ったのである。 対象が何であれ当然と思われた社会規範を崩し、新たな方向に流れを変えるのは容易なことではない。だが賛否両論が渦巻く中、カナダでは2003年にオンタリオ州が全国に先駆けて同性婚を承認し、それを追い風として他州も次々に法律を変更。ついに2005年にはカナダ全土で同性婚が承認された。  筆者はこの歴史的軌跡を残したいと思い「カナダのセクシュアル・マイノリティたち~人権を求め続けて~」(教育資料出版会)と題し一冊の本にまとめた。  それはカナダが国として同性婚を承認した一年前であったが、翌年(2005)は名古屋で世界博覧会が開催されたため、連邦政府に招待されカナダ館で講演も行った。今では懐かしい思い出となっている。 拙著を寄付  出版から数えると今年は19年目。間口の狭い興味の対象を特化した本ながら、当時出版社は2000部も印刷してくれた。久し振りに年明けに残部数を問い合わせたところ54冊と言う。 世界中が海底に沈下したかと思われたコロナ騒動に、ようやく光明が見え始めた春初旬。筆者はふと現在カナダと同じ道を歩んでいる日本のLGBTQの人々や関係者を勇気付けるために、残部を配りたいと思い立った。 ネットを駆使したところ、東京の新宿に「プライドハウス東京」というドロップインセンターがあることが判明。幸運にも出版社は破格の安値で残部の内40冊を筆者が買い取り、センターに送付してくれることを承諾してくれた。少しでも多くの人が読んでくれることを心から願っている。 プライドハウス東京の外観 今後の動き  先月広島で開催されたG7会合で、同性婚が法制化されていないのは日本のみであることや、ジェンダー平等後進国であることを踏まえ、岸田首相は前向きな態度を見せていた。だが、終わってみれば支持率ばかりを気にする体たらく。  とは言え、長らく審議されていた「LGBT理解増進法案」は、各党間で幾つかの文言を巡り喧々諤々の審議の末、8日に修正案が通過し衆議院内閣委員会で可決。法案は13日に衆院方会議で可決し参院に送られ、21日までの通常国会会期内に成立する見通しだ。  この法案は一応安定したかに見えるが、各方面から不満の声も上がっており、今後どのような方向に向かうかの不安要素は多い。  そんな中一つ光明を感じるのは、朝日新聞の世論調査(2月)で同性婚賛成派が72%であったこと。加えて過日の地方選挙で若い女性議員が多少なり増えたことであろう。今後は頭の固いおじさん議員たちに新風を送って欲しいと希求している。 

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第73回 BC州の州都所在地、ビクトリア市ってどんなとこ?

「Chinada」?  2月初旬のある日、多くのコミュニティ紙などの元締めであるBlack Press Mediaから発行されている新聞の一つに、写真のような記事が掲載された。題して「Announcement of Asian Supermarket in Victoria greeted by racist rhetoric」『ビクトリア市(以下V市)にアジア系スーパーマーケットが開店するのを受けての人種差別的な挨拶』とある。投稿者は当メディアのエディターの一人で最近V市に居を構えた白人男性である。 新聞に掲載された投書  彼は当地に来るまではバンクーバーに住んでいたという。周知の通りそこにはT&Tのような巨大スーパーからコーナーストアまで、世界各国からのバラエティーに富んだ食料品が売られている。  だがV市はそうはいかない。F日本食品店はそれなりに品揃えはあるが、バラエティーに乏しい。バンクーバーとの違いに驚いていた彼は、ある時midtownのショッピングモールに、北米最大手のスーパーマーケットの一つH Martが開店(3万sq.ft.)すると聞き歓喜した。主に韓国からの食料品を扱うこのスーパーでの買い物を、バンクーバーでは大いに楽しんでいたからだ。  しかしこのニュースがメディアに流れると、某Facebookには「アジア人がコミュニティを乗っ取ろうとしている」などから始まる人種差別的な書き込みが目立つようになり「今に“Chinada” になってしまう」とまで書かれたと言う。  幸いにもそんなコメントはすぐに取り消されたが、当のエディターは驚きはしなかったが大いに落胆したそうだ。  言うまでもなくこうした嫌がらせは、残念ながらどの国の、どの街の、どの人種の間でも起こりうること。だが筆者は、この記事を読み「この島は白人の最後のフロンティアなのよ」と誰かが言ったのをふと思い出した。 Japanese foodは嫌い  そんな街には「ここはいける!」と思わせる日本レストランの数も限られている。  知り合いの中年女性(白人)が「貴女には悪いけど私Japanese foodは嫌い!」と言い「どうして?」と聞くと「生の魚なんて!」と言う。「寿司以外のものを食べたことは?」の質問には肩をすくめるばかり···。  また今やラーメンは知らない人がいない国際食と思っていた筆者であったが、ある昼食時やはり白人の中年女性たちと日本のレストランでランチを食べることに。  その中の一人が私を真似てラーメンをオーダーしたのだが、御仁曰く「これってチキンヌードルスープね」とのたまった。そして食べ切れないからと持ち帰りのコンテイナーに残りをザッと入れた時には、「麺のこしが大事なのよ、ラーメンって」と口先まで出た言葉をスープと共に飲み込み、思わずむせてしまった。  皆さんこの島で生まれ育ち、旅行はもっぱら欧州方面、島以外には住んだことはないというご婦人たちである。 島国根性  もう一つ、当地以外ではあまり知られていないであろうエピソードを一つ。  今は昔の感があるコロナの恐怖が蔓延していたころ、ソマリア出身のビクトリア市議員が家族の安否を気遣って一時帰国した。多くの人々が自粛を余儀なくされていた時期であったため「公僕の市議員が外国に出るとは何事か!」と非難ごうごう。  カナダに戻った時には凄まじい迄のメールが届き、その多くは不謹慎な行動に対する糾弾であった。が同時に、ソマリア人に対する人種差別的なものも多く、目に余る事態に市長が取り締まりに乗り出すまでになった。昨秋の地方議員選挙に彼は再出馬しなかった。  勿論これがバンクーバーアイランドの住人すべてではない。それは声を大にして言っておきたい。  だがジョージア海峡の大きな波のうねりを乗り越えフェリーで一時間半。「やっこらさ」とたどり着くと、こんな人々に出会うことは決して珍しくないことも事実。そう、ここもカナダなのである。  「島国根性」とはよく聞く言葉だが、太平洋を隔てた“かの国”も、もっと迅速に多様性と取り組んで欲しいものである。

サンダース宮松敬子(サンダース・みやまつ・けいこ) コラム カバーイメージ

第72回 ある安楽死 (MAID-Medical Assistance in Dying)

 最近、筆者がかかわっている幾つかの物書きグループの原稿に、カナダにおけるMAID(安楽死)に関する記事が目につく。また地方紙のソーシャル欄にも、関連の記事が掲載されることは珍しくない昨今である。  これはMAIDという現象が、それだけ日常化してきているのか、或いは、自然のこととしてまだ受け入れるには人々の思いに抵抗があるということなのか? 保健省の基準  カナダでこのMAIDが合法化されたのは7年前の2016年。当然ながら法律が施行されるまでには長い年月を要したが、その詳細は保健省(Health Canada)のサイトに掲載されている。  そこには、希望する本人の適正基準、州別の対比、男女比や年齢別の比較、施行場所、選択の理由などが記されている。グラフや数字を用いての統計は、誰もが容易に理解でき、2019年以降は前年の経過が載っている。  多分「MAID」と聞いた時、普通誰もがまず考えるのは、どの様な状況の人が該当するのかということであろう。  その法的基準は、「18歳以上でカナダの公的医療サービスを受ける資格があり、的確な判断の出来る精神状態で、死が回避できない重篤な病を持つ人であること」となっている。  もちろん事前に医師からの十分な説明があり、患者が自発的にMAIDを希望しているのが大条件。これらをクリアした場合には、病院や医療施設ばかりではなく、高齢者施設や自宅でも実施することが可能である。  統計を見ると、合法化以来の6年間(2022年分はまだ未報告)に亡くなった人は31664人で、年ごとに数字は大幅に増加している。また州別では上位の一、二番はオンタリオ州とケベック州が年によって拮抗しており、三番目は常にBC州である。  カナダの中で一番気候が温暖なBC州は、リタイア後に極寒の冬を避け、他州からバンクーバーやビクトリアに国内移住するシニアが多いことから、筆者はここがトップではないかと思ったのだがその予想は当たらなかった。 MAIDで逝ったある実例  もし身内や関係者にMAIDの選択をした人がいた時には、程度の差こそあれ、周りの者たちはショックを受ける。自然死でないがために、良くも悪くもそれぞれの心の中にある種のしこりが残るからであろう。残された関係者たちは、心の葛藤を処理するのに時間を要する場合が多い。  だが最近筆者は、日本人移住者の一人からその場に立ち会った体験を聞く機会があり、こうした人々もいるという一つの例を知ったのだ。  それは長い同居後、三、四年前に結婚の手続きをしたカナダ人のゲイカップルの一方の男性(H氏)に起こったことである。二人を結び付けた共通点は、音楽に対する造詣の深さだったが、H氏は大分前に前立腺癌と診断され、症状が重篤になるに従いMAIDの選択をしたようである。  友人が立ち会ったその日は二月中旬で、まだ身を切る寒さの続くある日の午後であった。数人の立会人が待つ中、カップルが共に暮らした自宅に医者と医療関係者が約束の時間に到着した。  そこに至る迄には、すでに本人と医者たちとの間の話し合いは繰り返されていたことだが、改めて横たわる本人の枕元で手順など詳細の説明がなされた。そして最後に医者が「自己決定に異議はないか」と本人に問い「No」の答えが出たところで、注射を打ち立会人たちは退室させられた。  その後はある程度の時間をおいて葬儀屋が現れ、ベッドに横たわる遺体を手際よく布に包み別室に居る立会人たちのそばを通り正面玄関からさっと出て行った。淀みのない見事な連携振りだったと言う。  友人は日本の慣習を思い、遺体に本人が生前好きだった服を着せないのかと質問したところ「どうして?」との返事。この後は焼却してしまうのに無駄と言うわけである。  更に友人が驚愕したのは、葬儀屋が遺体の始末をしている間、立会人たちが隣室でピザを食べながら談笑する姿を見たことだった。彼らの脇を布に包まれた遺体が通り玄関に向かっても、手を合わせて見送ったのは彼女のみであった。  一人の人間の「人生の最終章劇」に幕が下りた翌日からは、ひっきりなしにかかって来る友人たちからの電話に、明るく答える残されたパートナーの姿にも違和感を覚えずにいられなかったと友人は言う。  深読みすれば、そんな振る舞いは長年の二人の生活を思い、悲しみを打ち消す為の偽装だったのかもしれない、とも思える。だがそれは本人以外知る由はない。 今後の動き  カナダも世界の多くの国々が直面している高齢社会が目前に迫っており、2042年までには四人に一人がシニアになると予想されている。  日進月歩の医療技術の発達のお陰で延命が可能な時代とは言え、統計の数字が占めるように、MAIDの選択が今後減少するとは考えにくい。しかし何はともあれ国としてこの法律を合法化するには、いろいろな意味で成熟した社会でなければ成立しないのではないかと思われる。 最近出版された本  ステファニー グリーン博士は、2016年以来、死に際の医療支援の分野で新たな道を切り開いてきました。彼女の画期的な回想録で、グリーン博士は、患者が死の支援を求める理由、そのプロセスがどのように機能するか、その出来事自体がどのように見えるかを明らかにしています。 Dr. Stefanie Green - This is Assisted Dying, A Doctor's Story of Empowering Patients at the End of Life

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第71回 おめでとう津田佐江子さん!~新装なった新報Webサイトの再起動によせて~

続々とカナダに来た戦後移住者  思い起こすと、津田佐江子氏がガリ版刷りの日本語新聞「バンクーバー新報」を初めて出版したのは今から45 年余り前の1978年であった。  その数年前頃からすでに「戦後移住者」と呼ばれた日本人が次々と海を渡り、73年のピーク時には1000余人を記録した。彼らは主に、BC州のバンクーバー市やオンタリオ州の州都トロント市に移り住んだのである。  しかし新生活に夢を託し、前途洋々の若い国カナダに来たものの、公用語は英語かフランス語。右も左も分からない土地で、さてどの様に生活の一歩を踏み出そうか・・・と迷った移住者たちは多かった。  私自身も同時期にトロントに移住した一人であるが、カナダに来る以前にはNYでの生活経験があり、花好きが高じて通ったフラワー・アレンジメント・スクールでデザイナーの資格を取得していた。  その後は紆余曲折を経てカナダに居を移したが、見知らぬ土地で生活を開始するにあたり、その技術があったことで自分の口を糊することには困らなかった。  日は巡り時はたち、どの移住者も新天地での生活を軌道に乗せ、私自身も結婚後、日本のN新聞のトロント支局での仕事に変わった。そこで学んだ新聞という媒体の持つ威力に圧倒されながら、カナダのモザイク社会が織りなすうねりの深さを体感した。  残念ながら日本のバブル崩壊のあおりで、最終的に支局は閉鎖という憂き目にあい、以後はフリーランス・ライターとなり今に至っている。   しかし記憶をたどると移住当初のトロントには、バンクーバー新報のような「日本語の文章に違和感のない日本人向けの情報誌」はなく、何かと不自由であったのを思い出す。  だが長い時の流れの間には、幾種類もの情報誌が発刊/廃刊されたが、現在では目を見張るほどに美しい色刷りの雑誌なども登場しており隔世の感を禁じ得ない。 「バンクーバー新報」の設立と発展  一方その間バンクーバーでは、津田氏が移住者たちとの深い信頼関係を築き、自らの足で地道に読者層を開拓し、移住者コミュニティになくてはならない新聞として成長していった。お役立ち情報の満載された情報紙であれば、こうしたたゆまぬ努力がいかに大切かは言をまたない。  長いキャリア後の2021年に退職を決心した津田氏には、喜ばしいことに日本政府から旭日小綬章が授与された。 旭日小綬章が授与された津田さん  以後は悠々自適のリタイアメント生活を送るはずであった。だが残念ながら築き上げたバンクーバー新報の「真の精神」を受け継ぎ、媒体の中心になってくれる人に恵まれなかったことで、今回再度の登場となったのだ。  退職時にはすでに発刊されていた新報ウェブサイトをさらに確固たる形にして、軌道に乗せることを決心したのは、津田氏の意思を尊重してくれる人々が集まったからのようだ。  それは当ウェブサイトの出版元、シーサイトメディア社の中心人物である小林昌子氏の存在が大きい。彼女の下で津田氏の意思を尊重し、推し進めようとするスタッフが一丸となって動き出したことは、何と素晴らしいことではないか!  そんな詳細を知らない移住者の間では「なんで?」といぶかる向きもあるようだが、それは津田氏の真の思いを知らないがための揶揄と言えよう。  今後とも日本人移住者、日系人、日本に興味のあるカナダ人たちと共に、この新報ウェブサイトが発展していくことを心から願っている。

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