Advertisement Advertisement

Tag: グランマのひとりごと

許澄子さんコラム カバーイメージ

146回 老女とIT

 音痴の私が「歌声喫茶」に入会させて貰い、楽しく毎月一回「日系センター」へ通い始めてからもう半年。其れだけでなく、この会のオーガナイザーの一人、ピアニストの多枝さんが、ほぼ毎朝短いピアノ演奏曲をPCで送ってくれる。送られてこない日は、前日の彼女の演奏を聴くから、彼女のピアノ演奏を毎朝聴ける。  音だけではない、ピアノの周りに庭の花や蝋燭が飾られ、部屋中にやさしさが漂っている。素敵な朝。84歳にもうすぐなるこの老女、でも今のIT時代だ。毎朝相手の顔を見ながら音楽が聴けるなんてまるで魔法の様だ。更にグランマが好きなのは、毎朝その演奏の終わりに、必ず彼女がすばらしい笑顔で締めくくってくれるのだ。その笑顔を1日中抱えて生きる日々、本当に幸せだ。そして、「コンピューター様」有り難う、「歌声喫茶様」有難うとつぶやきます。  「またぁ、ママったらぁ!」と娘達に言われるけれど、グランマは60年前に入社したルフトハンザドイツ航空の仮採用を終えたらすぐに、真冬の寒ーいハンブルクにトレーニングに行かされたのよ。その時、忘れられないよ。主な仕事は計算だから計算機のない時代「算盤」を持って行ってさ、授業が始まり私一人クラスで算盤を使用開始。途端、12ヶ国、他国からのクラスメート達に叱られて「算盤」を使わせてもらえなかった。その経験をこの「グランマのひとりごと」に何回書いただろうか?  その翌年、やっとフランクフルト空港から近いゼイハイムという所に新しいトレーニングセンターが出来て、初めて各自に計算機が持たされたのよ。皆が「コンピューター、コンピューター!」と両手を上げて喜んだ。あの時のうれしさ、60年経った今も忘れられない。  でもね、どう考えても昔から算盤を使えた中国人、日本人って頭いいよね。3ケタ、4ケタの暗算が出来る羽田ステーションからの日本人同僚だっていたわよ。  兎に角、今、PCの入手は出来る、だけど上手く使えない私。仕方がないからランガラ・カレッジで3ヶ月のパーソナルコンピューターの初歩コースがあったので出席した。しかし、私は3ヶ月コースが終了しても試験を受けられなかった。仕方がない、私はもう一度同じコースを3ヶ月間受けなおした。合計6ヶ月だ。さすがこの老女でも2回目、つまり6ヶ月かかって試験はパス出来た。そして、クラスの最終日、ドアの所に立って皆に挨拶している先生と助手が私に「SEE YOU AGAIN!」とニコニコしながら言った。  私が「DO I HAVE TO COME AGAIN?」と聞くと2人が大笑いをした。いい先生達だった。  今、パーソナルコンピューターだけでなく、アイホンとアイパッド、もう私には区別がつかない。でも携帯電話は持って歩いているし、アイパッドでゲームもする。  ただ日本にいる私の年齢の友人、同年齢の親族達はPCを使わない人が多い。色々、面倒くさいけれど、私の様に「難聴で眩暈」の老女には生きる希望にもつながるから、面倒でも頑張ってみよう。  多枝さんの演奏が毎日聴けるだけでもうれしいんだ。

許澄子さんコラム カバーイメージ

145回 美樹ちゃん、ありがとう

若く、優しく、明朗、聡明、太陽のような美樹ちゃん。大好きです。 自分が知らない間、貴方に大変お世話になっていたからです。 暗黙のうちに貴方がこれほど沢山の事をやって下さっていたなんて、本当に驚いたぁ。 そして、ありがとう、美樹ちゃん。  でも、どうして今頃、お礼?と聞かれそうですね。それは、お礼を言いたくなる事実に気が付いたのが、「今」だからです。貴方は最初、日本からアメリカのサンフランシスコへ高校留学中に、私の娘バーニーの家に住み、孫の「マヤちゃん」3歳(?)の子守を高校、大学在学中とやってくれていたのですよね?私がサンフランシスコへ訪ねて行くと、留学生の貴方が観光案内して下さったのを覚えています。とても楽しかったぁ。あの時の写真を見ながら今も楽しんでいますよ。水族館や画展、町中も歩いたねぇ。そして、美樹ちゃんは高校大学と卒業し、日系商社へ就職、すっかり自活。でも何だか貴方は娘家族の家族同然になっていたみたいですよね。マヤも大きくなってサンフランシスコバレエに入ってナッツクラッカーの兵隊さんになったり、其の後にボストンバレエに移ったりしました。その頃ですか?貴女は何時の間にか、日本に帰っていたのですね。貴女がバンクーバーに、昨年、仕事でいらして、私達は再会。それからこの1年間、時々会えて嬉しかったです。  そして、グランマが貴方にこのメッセージを書き始めたのは、貴方が無言でやって下さった思いやりある本当の親切、それに、どうしても心からお礼が言いたかったからです。貴方は何も言わず、バンクーバーの我が家へ来るとニコニコして、私が不在中も、昼寝中も、やりかけの「やっておかねばならない、グランマの“終活”事務仕事」に気が付き、山のように積まれたダイニングテーブル上のファイルを全部読み、内容を書き出し、処理しやすくしておいて下さったのですね。  私がそれに気が付いたのは、日本旅行から戻った6月の事でした。ダイニングテーブル上に一杯に広げてあったファイルの山を自分で処理しようと、本棚にもどそうとした時でした。戻しながら見た全部のファイルの表紙に5センチ大の黄色のシールが1〜3枚張り付けられ、そこに各ファイルの内容説明が書かれていました。美樹ちゃんが帰国されて、約半年たって居ました。 「うわぁー、ビックリ!」 どのファイルも、皆、貴方の可愛らしい漫画文字で丁寧に書き出され、うれしかったです。有難う。 私が手に取ったファイルの一つに、以下の様なのがありました。 澄子さん   以下、「日記」でしょうか? とっても良い事が書かれています。  ご確認ください。 美樹  そして、グランマがファイルを開けると、 8月29日  愛は幸福財布、与えれば与える程、中身が増していくみたい。「はっはっは。」 そして、自分にしかできないことがある。 それは他人から見たら出来ないと言われる事かな? 8月31日  1日風邪でよく寝ていた。日野さんから電話あり。 今日、なぜか思った事、「成功するより、人の役に立つ人」と「結果が出ないことをやり続ける。」そんなことできるかなぁ。 9月1日  風邪が良くなってきたみたい。何だか色々、こうありたい、そうありたいと思いながら、生きてきた自分なんだけれどなぁ。  困難がやってきたら「有難う!」って言ってみよう。難しいかな? そう決めたらそうなる。だからそう決めるのだよね。 明日は必ず良いことが起こる、もし起こらなかったら、それは明後日だ! 9月2日 まあ、色々考えてみるけど、いくら予測しても未来はわからない、 それは私たちが創るもの。できなかった時、できた時より成長するんだよなぁ。 9月3日 何があっても幸せになると決めたら、何があってもいいんだよ。 いつか良いことが起きる事を期待するのではなく、今日、良いことを自分が起こす。 不可能を可能にする秘策とは毎日、小さなことを可能にしていくこと あきらめた後にすることはあきらめないこと、毎日が人生を変えるきっかけに 満ち溢れている 有難う、美樹ちゃん。これを探し出してくれて。 こうやってこのグランマ生きてきたんだよね。やっぱり、幸せだなあ。

許澄子さんコラム カバーイメージ

144回 ピクニック、さくらシンガーズ

 「ああ、疲れたぁ。」「でも、たのしかったぁー。」さくらシンガーズメンバーのポットラック・ピクニックに参加させてもらったのだ。そして、今帰ったところ。とにかく、疲れた。けれどやっぱり行かせて貰えてよかった。そして、この「幸せ感」を今ここに書いておかないともったいない。このグランマはすぐ忘れるからね。楽しかった今日の思い出を、さぁ今から書き始めよう。  彼らがこの春、バンデューセン公園の桜祭り(Sakura Days Japan Fair)で歌った歌を、このピクニックで全部歌ってくれた。本当に美しい。どうしてこんなに美しいのだろう。グランマでも知っている歌が90%。コーラス用に少し編曲してあって、より美しく聴こえてくるのだった。  今日も雑談で皆に笑われたけど、私は本当に音痴なのだ。昔、グランマの学生時代にゼミで2年間、たった1曲、ドイツ語で「野ばら」を教授の趣味でクラスソングみたいに毎週歌っていた。それが3部合唱にまでなった。私は歌えないけれど、ソプラノが高音、位はわかっているけど、メゾソプラノもアルトも、音が取れない。声も出ないのだ。出るとしたら、多分、テナーか悪くすればバリトンだろうか?だから、クラスメートから「澄子さんは口だけ動かしてね。」「声は出さないでね。」と言われていた。やがて皆卒業し、時は、私の結婚披露宴。そろって来てくれた。今、写真で見ると6、7名いる。クラスメートが皆で歌を歌うと言う。そして、花嫁の私にも一緒に立てと言うから立った。歌う寸前に「澄子さん口だけねぇ。」と耳元で言って、皆がニッコリした。 この話の後、シンガーズで指揮を執る中堀さんが皆で歌おうと「ぽっぽぽ、鳩ぽっぽぽ…」と歌い始めた。皆で歌った後、近くにいた私に「歌った?」と聞いた。「うーん、歌わない。」と答えた。でも優しいねぇ。それすら歌えない、そして、聴くことの大好きなこのグランマ、でも「難聴」は日々深刻化している。  何時だったか、「グランマのひとりごと」に「東洋のスイス」という題でウェブに書いたが、まだ日本からの一般渡航が自由化されていない時、ある新聞社、外務省、カンボジア大使館の協力で、高校生の私をカンボジアへホームステイ体験に大学生と2人で行かせてくれた。バッタンボンという村の晩餐会で、皆が日本の歌を「歌え」と言う。同行の大学生が「さくらさくら」を歌おうというので歌い始めた。途中で音が外れて、可笑しくなった。途端、私は歌いきれず笑い始めた。そしたら、会場中が皆笑い出した。音痴であんなに人に喜ばれた経験はあの時だけだ。半世紀以上前の出来事だけれど未だに忘れられないなぁ。笑  とにかく、今日のさくらシンガーズのポットラック・ピクニックの往路に1時間10分、帰路に40分、合計2時間運転してもらった。ラングレーの素敵な個人宅。さくらシンガーズのメンバー知子さんのご主人、パートリックさんが運転して下さった。知子さんは数日前、転んで左手小指を骨折、不自由な手だが彼女は笑顔を絶やさず、同行してくれた。到着した高木邸、とにかく、庭の綺麗さに感動する。隅々に生えている苔のような植物も、愛情一杯に育てられている、濃いピンク、僅か1ミリ足らずの大きさで土に這う緑の上に点々と一杯花を咲かせていたのです。それぞれがそれぞれに思いを込めたポットラックのお弁当。綺麗で美味しくて楽しい。  中村さんから夜、ピクニックの楽しい写真が送られてきた。そして、一晩明けた今朝はPCを開けた途端、ジンジンさんから十数枚の写真が出てきた。思わず皆の写真の笑顔に、夢中で「おはよう!」と笑顔を返していた。  もう一度、さくらシンガーズの皆様「ありがとう。」これからも美しい歌声で多くの人を楽しませてください。

許澄子さんコラム カバーイメージ

143回 バンクーバーの「歌声喫茶」

 明後日は待ちに待った6月の「歌声喫茶」の日です。  月に1回だけですが、日系会館で開かれるこの「歌声喫茶」。音痴の私でも、昔の歌が聞け、口ずさむことが出来、とても楽しいひと時をすごせるのです。83歳半で私が見つけた、楽しみの場所です。  此処バンクーバーにはグランマと同年齢でも「サイクリング」をやったり、「歩こう会」で歩いたり、「ゴルフ」を楽しんだりなさる方が沢山います。でもこの「グランマ」、身体がなかなか言う事を聞いてくれません。せいぜい、こうしてPCに向かって物を書いたり、音痴でも一人で大きな声を出して歌ったり、植木に水をあげながら話したり、息子の老犬の世話をしたり....。そして、新しく見つけたグランマの楽しみ、それがこの「歌声喫茶」です。優しい「歌声喫茶」のメンバー達に色々教えてもらいながら、これで4回目の参加になります。 この心温まる楽しみな「歌声喫茶」、毎回、会の終わりに皆で手をつなぎ、輪になって歌う「今日の日はさようなら」 1)いつまでも絶えることなく友達でいよう、明日の日を夢見て、希望の道を2)空を飛ぶ鳥の様に、自由に生きる、今日の日はさようなら、また会う日まで3)信じ合う喜びを、大切にしよう、今日の日はさようなら、また会う日まで、また会う日まで  日本の友人で、私の書く「老婆のひとりごと」「グランマのひとりごと」をずっと読んで下さっている友人に、この春、「歌声喫茶」の楽しさを伝えた。そして、彼女からこんなメールが入ってきてうれしかったぁ。 澄子さん お布団のぬくもりから中々抜け出せません。朝5時に目が覚め、ラジオを聴いていたらあっという間に2時間過ぎてしまいました。澄子さんの執筆の活力源は好奇心と行動力ですね。サポートしているおば(92歳?)は、私や従姉妹が小さい頃、よく童謡を歌ってくれたので今でもよく覚えていて、先週はCDをかけながら「春が来た」「雛まつり」「象さん」を一緒に歌いました。1番の歌詞しか覚えていなくて、2番3番の歌詞を聴くと改めて童謡の奥深さを感じます。 北風が吹いていても梅の蕾が沢山。春はすぐそこです。宏江  宏江さん、本当に「いつまでも絶えることなく友達でいよう」ねぇ。  そして、この5月中旬、グランマは娘と息子に付き添われて日本旅行をした。それは親戚や友人達に「さよなら」を言う為だった。日本人の自由渡航不許可時代から、このグランマ、外務省の助けで外国旅行を始め、本当に一人で若い時からひっきりなしに旅行した。それが私の人生みたいだった。そして、今は眩暈と難聴で「一人旅」は子供達から「NG」が出た。でもとにかく今回が日本行き「最後」としても、私は会いたい人達に会う事は出来た。 「空を飛ぶ鳥の様に、自由に生きる、今日の日はさようなら」でもまた会う日迄、「明日の日を夢見て、希望の道を」(「今日の日はさようなら」金子詔一作詞・作曲)

許澄子さんコラム カバーイメージ

142回 グランマの日本旅と孫、そして、別れ

 4日前に10日間の短い日本旅行から帰って来た。数少なくなった私の年寄り友達に「さよなら」を言う為の今回の旅だった。  若い人達は知らないかもしれないけれど、1980年代の多くの女性に、力強い女の生き方と、気づきと、刺激を与え続けていた作家の桐島洋子さん。今年、彼女は7月7日に86歳になる。今回、彼女を又、横浜の自宅へ訪ねた。アルツハイマー系認知症にかかっていると言われ、『ペガサスの記憶』と言う本が一家4人の手で出版されたのが2022年の9月。あれからこの7ヶ月の間、3回、私は彼女を訪問した。  会う度に2人で抱き合って再会を喜んだ。桐島洋子先生、彼女はちゃーんと私の事もバンクーバーの事も覚えている。そして、互いに繰り返し、繰り返し、「懐かしいVancouver」の話をする。終わりは彼女が又「バンクーバーに行きたーい。」と言う。  今回の私の日本行きはその洋子先生ともう一人、グランマが18歳の時からの友人「クーニャン」(ニックネーム)。今85歳で大腸がんの手術を2回し、体調がいまいちだというのだ。「6月までもつかもたないか?」と脅かされて、夢中で会いに行った。  このグランマ、今、どこを歩いてもふらふら眩暈、何時も誰かに支えて貰う。杖ではなく自分で歩くのだ。「クーニャン」は鬘をかぶってとても綺麗で美声だった。昔から美しい声で歌い、絵が上手だった。今回、日本で会って何故か、「今年の11月まではお互いに生きていようね」と2人で約束した。とにかく、この桐島洋子先生とクーニャン、他に、私と一緒にどんどん年を取っていく姉弟妹達にも日本で会えたのが嬉しい。  幸い、その他の友人達はまだ若く皆元気だ。皆に会う度に私は元気をもらう。そして、又今回、大好きな、美しい本作りの宏江さん、日本全国100ケ所お寺参りや東海道を日本橋から京都まで「徒歩」旅した敦子さん、更に『帝国ホテルで学んだ無限リピート接客術』という本をバンクーバー滞在中に書いた福本衣李子さん、この3人の猛烈に素敵な笑顔に見送られながら、羽田空港から車いすでグランマは帰路に着いた。有難う。嬉しかったぁ。  私は24時間、娘と息子に付き添われ、空港では車いすに乗っての旅。でもとにかく全て無事、そして、帰って来た。  10日間の滞在中のこと。孫レイナの案内で渋谷へ買い物に行った。外国人が多く、「ここが日本?」。移民の国カナダのバンクーバーと同じだ。多国籍な人々でいっぱい。違いは街中を歩く人数がここバンクーバーよりゴタゴタで猛烈に多い。  グランマは「孫レイナ」につかまり、はぐれない様に一所懸命街を歩いた。緊張に緊張連続の半日。全く楽しくなかった。「でんぐり返しの孫レイナ」は3歳位頃からジムナスティックが好きで、中学修了寸前にモントリオールのシルクドソレイユというサーカスのオーディッションを受け合格、一人カナダへ来た。数百人の受験者中、受かったのはたった7人だった。きっと彼女はずいぶん頑張ったのだろう。  しかし、1年たったらそれをやめて、日本へ帰っていった。日本で高校を終えると、上智大学に入学し、来年もう卒業だという。彼女は面白い事にその「でんぐり返し」で、アルバイトが出来るようになったのだ。何の仕事?その仕事は?それは「でんぐり返し」だ。テレビなどのわき役で、危険な場面ででんぐり返しをして、難を逃れる人の代役をしたり、その他、色々。時給1000円のアルバイトとはくらべものにならない高給がもらえるそうだ。まあ、こうして老婆の世話する優しいレイナだ、「でんぐり返し」でなくても、来年大学を卒業すれば、きっと何かいい仕事を見つけるだろう。心配はしない。  久しぶりの旅から戻り、時差の調整も出来た。そしてまた、今日も終活を続けていく。83歳半。 『ペガサスの記憶』 『帝国ホテルで学んだ無限リピート接客術:一瞬の出会いを永遠に変える魔法の7カ条』

許澄子さんコラム カバーイメージ

141回 若い友達 その2

 2023年1月24日、仲良しだった美樹ちゃん(33歳)が日本に帰ってしまった。ああ、寂しい。彼女は息子のダウンタウンのコンドに住んでくれていた。むろん無料で。息子は「難聴と眩暈でふらつく」この老婆を心配して、私の所に来てくれている。でも、コンドを空き家に出来ず、賃貸もしたくない。「誰か気持ち良く住んでくださる人いないかなぁ?」と呟いたら日本から一昨年、美樹ちゃんが来てくれた。 それから一年たって、不思議、不思議、今度は美樹ちゃんが帰国するその寸前のことだ。彼女がいなくなる。「困ったなぁ。」またここで呟いたら、インドからメールが入った。まぁ、懐かしい「RICKY」(24歳)からだ。  以前、私は幾つかダウンタウンに賃貸コンドを持っていた。その一つ、一番小さい480SQFTのコンドが美樹ちゃんの居たのと同じビルにあった。それは2階でベランダが道路に面し、メープルの街路樹が秋には道路を彩り、その横は「ロブソン スクエア」。ビルの後ろは大道りに面し、そこに「グロッサリーストア」があり、更にそのビルには映画館もある。歩いてロブソン スクエアを通り越すと「カナダ ライン」の駅、その先には図書館、そうそう私の好きなVSO(バンクーバーシンフォニーオーケストラ)のオーフィアム劇場も。更にもう少し歩けば「QE(クイーンエリザベス)劇場」にも行ける。レストランも一杯あるし便利なのだ。  今の4880SQFTから480SQFTに移るのは勇気がいるが、その便利さが好きで、自分が将来住みたいとずっと持っていた所だった。そこに以前、住んでいたのがRICKYだ。インドから送信された彼のメールで2月からの入居場所を探していると言う。美樹ちゃんが1月24日に帰国、そして、Rickyが2月1日入居。うぁー!そのタイミングの良さ。そうそう大好きだったそのコンドは、彼が出た後、維持するのが面倒で売りに出したら1日で売れてしまった。  ふっと何か欲しい、本当に欲しい時、それを願いながら呟いてみるといいような気がする。  そのRickyはマイクロソフトで 働いていた人で、今度バンクーバーに戻ってきたのもその関係のようだ。老婆の他の若い友達と違って、彼はインドで教育を受け、家族はシルディサイババの帰依者だという。何か聞くと直ぐに答えくれるのが面白い。私が唱えるマントラはヒンズー語だが彼と一緒に唱えられる。ブルーブア スワハー….私が50歳で覚えた「ガヤトリー マントラ」を彼は幼い時に小学校で覚えたそうだ。私が車を運転しながら「ブルーブァ スワハー……」と言うと彼の声も聞こえる。嬉しかった。また、PCでわからないことがあれば、ITの専門家だからすぐに教えてくれる。と言っても修理してもらうだけで、私には結局よく分かっていないみたいだ。IT世界から、やはり取り残されていく老婆なのかなぁ。トホホホ……

許澄子さんコラム カバーイメージ

140回 若い友達 その1

 アレー、何だろう?このメール。受信したばかりのメールを開けた。それはなんと2年前、バンクーバー新報の求人広告に募集広告を出した「家事手伝い」への応募者だった。その青年の来加は数ヶ月前だった。でも2年前の広告を見ることが出来るのだ!これが私の苦手なIT世界の現実なのだろうか?  我が家は夫の趣味と仕事(建築)のおかげで広さ4880SQFT。そこには使ったことのない「サウナ」に、以前は使っていた「ジャグジールーム」、小さな日本庭園付きの和室、浴室5つ、寝室6部屋、プレイルームもある。そろそろ84歳に近いこの老婆と息子の2人には大きすぎる。手入れが出来ない。それで「家事手伝い」募集をした。結果は2年間応募者は無かった。しかし、広告掲載2年後の今年、初めてこの応募者があった。早速、応募者に連絡すると「家を見たい」と来てくれた。  その青年は26歳。千葉から来た語学留学生で就労許可は持っている。非常に感じの良い青年だが、可哀そうに痩せているのが気になった。結局、彼は家事手伝いは出来そうになく、山の様に積まれている書類の整理を依頼してみようかなと思ったが、どの書類も全部英語だ。銀行や税務関係等色々な金融関係の書類整理は語学留学生には無理。仕事の依頼は出来なかった。彼は別の所でパートが決まったようだ。  私は料理が下手だ。亡夫も今同居の息子も食道楽で食べるために生きている様だ。自分で料理もする。私が手伝おうとすると「触るな!」と言って触らせない。私が何か料理して、息子に食べてくれるように頼んでも、ほとんど息子は食べてくれない。多分、私は和食を作り、息子は洋食を作る、と言う大きな違いがあるからだろう。でも、時々作る私のチキンカレー、これは息子も食べる。  それで、その26歳の青年に「チキンカレー」食べる?と聞くと「食べたい」という。早速「チキンカレーを食べに来てください。」と誘った。そして、それからもう3回、青年はきてくれた。今、4回目のチキンカレーを用意している。老婆にとって何より嬉しいのは、若い彼が、私の昔話をちゃんと聞いてくれること。そしてそれを聞きながら、今度は彼が若者の世界の話、ITの話を私に優しく聞かせてくれる。  昨夜、女性企業家の会の食事会があった。隣席に新入会員の一人がいた。若いその女性の話を聞いていると、その幅の広さ深さに驚いた。ITで育つ子ども達に関するその見方が鋭い。  ああー、算盤で育ったこの老婆、残りの人生どう生きたらよいのかなぁ?

許澄子さんコラム カバーイメージ

139回「思い出」

 それは先月、4月8日だった。隣室の電話のベルが音高く鳴った。急いで受話器をとる。すると「澄子さん、『彼女』、今朝3時に亡くなられたってご主人から電話を頂いたの。」と洋子さんが言った。亡くなったその「彼女」の居たホスピスへ、先週4月1日に連れて行ってくれたのが洋子さんだ。  その4月1日のことは前回ここでお話した。それは、こんな会話から始まった。その日、運転中の洋子さんと共通の、暫く会っていない友達がいた。ふっと「彼女」に会いたいなぁ。と言うと運転してくれていた洋子さんが、「彼女、今ホスピスにいるのよ。連れて行ってあげる。」と言うと、そのままそこから近いホスピスに連れて行ってくれた。そして、私にしてみるとその彼女に会うのは半年ぶりだ。しかし、ホスピスで会ってみると彼女はもう私が誰だか分からなくなっていた。私もその人が、私の知っている彼女だとは思えなかった。  彼女は言葉もなく、笑顔もない、でも綺麗な透けるような皮膚をして、唯、給水機で洋子さんから、水を何回も飲ませてもらっているだけだった。「ああ、お元気なうちにお会いしていたかった。」、「思い出」話もしたかった。忙しい彼女だから、連絡がなくてもあまり気にしていなかった自分の怠けを後悔した。  彼女の他界連絡を受けた後、もう、私は本当に淋しかった。直ぐに自宅の裏庭にある温室へ行って、彼女から頂いた幾つかの植木を見つめた。もう数年も前に頂いた名前も知らない植木だが、葉が見事に大きく育ち、花を毎年咲かせる。今年で3年目だ。今年もまた大きな芽をだし、手のひら大の白い、これまた大きな花を2輪咲かせてくれている。そしてまた、やはり彼女が持って来てくれた、白い見事な紫陽花。それはまだちょっと芽が出たばかり。でも彼女の思い出と一緒に今年も花を咲かせてくれるだろう。  歌が上手でコーラスなども彼女はとても楽しんでいたようだ。ある時、彼女がノースバンクーバーにある小さな教会で開かれた日本人の音楽会に連れて行ってくれた。ピアノ演奏、コーラス、独唱、ヴァイオリンの演奏、まだまだある。ハワイアンダンスまであったのだ。それは楽しかった。そして、終わりにポットラックのお食事なのだった。その時、一日中ピアノを弾いてくださっていた「多枝さん」に又「歌声喫茶」を紹介して頂き、毎月一回この老婆、仲間にいれてもらい命の洗濯をしている。  今、「彼女」と会えないのは淋しい。けれど懐かしい数々の思い出、植木も、あの笑顔も、あの歌声も、全て大切にしていこう。  ご冥福を祈る・サイラム

許澄子さんコラム カバーイメージ

138回「ホスピス」と思い出

 昨日だった。メトロポリタンオペラ上映を観ての帰り、半年ほど会っていない友人Aさんのことが気なって、運転中だった共通の友人に「Aさん、どうしているのかなぁ。」とふっと言った。運転しながら彼女が答えた。  「Aさん、彼女ね、今ホスピスにいるのよ、会いたい?」  「えっ!ホスピス?」「本当?どうして?」「肝臓癌ですって」  Aさんに「会いたい」と言う私を、運転中の友人が、そのままホスピスに連れて行ってくれた。  リッチモンドにある、その小さな、でも、明るいホスピス。随分前にVGH(バンクーバー総合病院)のビルの向かい側にある、大きなホスピスにいる別の友人を見舞いに行ったことがある。その時、病人であるはずの友人は明るくて元気で、とても死を待つ人には見えなかった。その印象が忘れられない私。だから久しぶりに会うAさんとも、お互いの笑顔を期待していた。  病室は庭に面して明るい綺麗な場所だった。ドアを開けると庭になっている。そして、ベッドに横たわるAさんに会った。彼女の私を見る目は無表情だった。そして、私自身も人違いではないかと思った。その人が私の知っている「Aさん」なのだと分からない。 やせ細っているけれど、血色は悪くない。でも全く同じ人物には思えないのだ。病室を出た後でも、ずっと違う人と会ったような気がしていた。   言ってみればその後、一夜明けた今でも、私にはあのベッドの人が、私の知っていたAさんとは思えないのだ。あのベッドに横たわって冷たい目でじろりと私を見たその人と、私の家の温室に何回も、何回も、色々な鉢植えの花を届けてくれた「A」さんとは違っていた。  彼女の記憶にもう私は残っていない。そして、元気なはずの私の記憶にもあのベッドの冷たい目の彼女はいない。でも、何時も花の鉢を抱えてニコニコ訪ねてくれ、物知りで、歌が好きで、人助けが人生みたいな人だった。  Aさん、彼女が残してくれた数々の思い出、それを私は大切にしていこう。

許澄子さんコラム カバーイメージ

137回「世界で一番幸せな男」

 お正月が過ぎて間もなく、美樹ちゃんからメールが届いた。美樹ちゃんは今年33歳、何時だったか、グランマが間違って34歳と言ったら、「やーだぁ、私33歳よ」と訂正させられた。彼女の笑顔、それは美しい、優しい、そして、よーく全てに気が付く、人の心が読める聡明な女性なのだ。グランマは彼女の笑顔が大好きで会う度に元気がもらえ、嬉しかった。でも、彼女は1月24日、カナダから日本へ帰った。たった1年間のバンクーバー滞在だった。  彼女の帰国後、淋しがるグランマを想像したのか、理由は分からない。けれど彼女は自分の帰国ずっと前にグランマに「101歳、笑顔のお爺さん」の写真を送ってくれていた。それは『世界で一番幸せな男』(河出書房新社)と言うタイトルの本の表紙だが、グランマは写真を見た途端、その笑顔のすばらしさに感動。それは仏陀でもない、聖母マリアでもない、キリストでもない、ダライラマ?パラマハンサ・ヨガナンダ?シュリ・シュリ・ラビ・シャンカール?一体誰だろう? その写真の彼はアウシュヴィッツから生き延びたユダヤ人「エディ・ジェイク」だった。  日本在住の次女にその本の入手を依頼。彼女は私の83歳の誕生日にその本を手渡してくれた。それから色々調べると彼は1920年生まれ、ユダヤ人で1945年「死の行進」最中に脱出し、アメリカ軍に救出され、1950年にオーストラリアに移住した。アウシュヴィッツ生存者としての経験を通して得た、彼自身の「美しい人生の見つけ方」を『世界で一番幸せな男』と言う本に書いた。2019年の「TED TALKS」への出演で、世界的な大反響を呼んだ。彼が99歳の時、数千人の前で笑顔で講演の動画を見ることが出来、グランマはここでもまた感動した。 注:「TED」とは? TED(Technology Entertainment Design)は、世界中の著名人によるさまざまな講演会を開催・配信している非営利団体。 マイクロソフトの創業者のひとり・ビル・ゲイツや、アップルの生みの親であるスティーブ・ジョブズも登壇したことのある講演会としても有名です。  本の表紙はエディが101歳の時の写真のようだ。彼は「どんな苦しみからも人間は立ち上がる事が出来る。」と言っている。この本が出版(2021年7月)されるそのずーっと前1956年に、ドイツ強制収容所の体験記録『夜と霧』V.E. フランクルの書いた本もグランマは読んだ。本の表紙に「評する言葉もないほどの感動」と絶賛(朝日新聞)された歴史上最大の地獄の体験の報告。人間の偉大さと悲惨を静かに描く。この本に掲載されている多くの写真が信じられない程残酷なのだ。同じ人間同士がどうしてこれほど残虐なことが出来るのだろうという読後感だ。しかし、101歳迄笑顔で生きた、「エディ・ジェイク」、彼の笑顔はすべてを「笑顔」にしてくれている。「有難い」と思った。そこにはもう言葉は必要ない。(彼は2021年10月没) アマゾン:『世界で一番幸せな男』(河出書房出版)エディ・ジェイク著 金原瑞人訳

Page 1 of 2 1 2

最新ニュース

Welcome Back!

Login to your account below

Retrieve your password

Please enter your username or email address to reset your password.